自己矛盾☆における『繰り返し』技法から見る文脈の意味論

  1. はじめに

  2. 『自己矛盾☆』で用いられる繰り返しとは

  3.  実例分析

    3-1.「お前はクッキー☆が好き、私もクッキー☆が好き」

    3-2.「クッキー☆は肥溜めに咲いた奇跡の花

    3-3.「視線に飢えている」

  4. 分析結果から見る繰り返しの機能

  5. 終わりに

 

 

1.はじめに

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 自己矛盾氏による”クッキー☆ボイスドラマ”、『魔理沙とアリスの自己矛盾☆』は様々な観点から読み解く事が可能であり、今なおその新鮮さは色褪せない。ここでは本作品の内複数回用いられる「セリフの繰り返し」に焦点を当て、その表現の背景に立つ文脈、コンテクストの役割について振り返る。筆者の知識不足、またブログ記事という媒体上簡素な文章にならざるを得ないが、小論を通じて読者、筆者共に作品への理解を深める事を執筆の目的とする。また以下の分析は動画の視聴を前提として進めていくため、読者にあっては当該の動画を一見されたい。

 本論の執筆にあたって、登場人物の名前を台本から変更した。

 ・原理主義HSK→過激派

 ・KZY→企画者

 また、主人公については文脈によって「霊夢」「主人公」表記を使用している。

 

2. 『自己矛盾☆』で用いられる繰り返しとは

 『魔理沙とアリスの自己矛盾☆』(以下、『自己矛盾☆』とする)において、

・異なる人物が

・異なる場面で

同じセリフを用いる表現がある。この解釈は、言語学では意味論という分野で研究されている。私たちは普段そのメカニズムについて意識することなく複雑な意味関係を理解しているが、例えば機械翻訳の開発でこの意味解釈は大きな障害となった。『自己矛盾☆』における具体例は後に見るが、文脈によって文の意味は時に正反対にもなるものである。

3. 実例分析

3-1.「お前はクッキー☆が好き、私もクッキー☆が好き」

36:10 企画者「お前はクッキー☆が好き、俺もクッキー☆が好き。そこに何の違いもないからな!」

37:47 過激派「お前はクッキー☆が好き、私もクッキー☆が大好きだ。そこに何の違いもないからな。」

 

 これはこの「繰り返し」について分析する際最も適切な例になるだろう。主人公に対して向けられたこの言葉を文字通り解釈すれば

A=B   B=C  → A=C  

・主人公は企画者と全く同じようにクッキー☆を愛している

・主人公は過激派と全く同じようにクッキー☆を愛している

よって

・企画者と過激派は全く同じようにクッキー☆を愛している

という結論が導き出されるが、当然これは事実と正反対と言って良い。

 もっとも、この点については二つの解釈がある。一つは今書いたようにこの二人の思想は当然矛盾しているとした上でその意味を追求するものだが、「お互いが対極に立っていると思い込んでいる二人だが、実は彼らのクッキー☆に対する愛には通ずるものがあるのではないか?」という疑問として解釈する事も可能だ。後者は修辞学的に見れば反語的問いかけと言う事ができよう。しかしここでは前者の解釈に基づいて続ける。

 過激派と企画者による主人公へのこの呼びかけが事実と異なっている事は、この直後主人公が邪悪にデフォルメされた二人の板挟みになる心理描写からも明らかだ。企画者に対して主人公は、クッキー☆を売名の為に利用する事への反感を抱いている。過激派に対して主人公は、伝統を守る事に固持して創作の可能性を奪う事への反感を抱いている。「お前はクッキー☆が好き。私もクッキー☆が好き。」という一つのセリフからこうした複雑な葛藤を引き出すような技術こそ、『自己矛盾☆』が視聴者を惹きつけてやまない要因の一つだろう。

 

3-2.「クッキー☆は肥溜めに咲いた奇跡の花

20:36 霊夢クッキー☆は肥溜めに咲いた奇跡の花だよ?」 

36:55 過激派「クッキー☆文化遺産だ。高尚なのだ。まさに肥溜めに咲いた奇跡の花!東方二次創作とは一線を画す貴重な花なのだ。」

 これは一つ目の例とは少し異なるケースだ。この「クッキー☆は肥溜めに咲いた奇跡の花」という思想はク☆堕ちして間もない過激派に霊夢が伝え、後ほど霊夢に送り返された概念と言える。この例についての分析は、時間経過による霊夢の立場の変化が中心になる。

 霊夢が過激派に伝えたこの概念だが、物語後半で過激派が口にした時霊夢は最初と同じようにこの言葉を信じていただろうか?そうではない。ラストシーンの演説で叫ばれるよう、霊夢クッキー☆の闇の深さ、それ自体が含む不気味なアンバランスさ、界隈に住み着く人々の醜さ(紫曰く「人間の屑」)に直面していた。即ち、この場面で「クッキー☆は肥溜めに咲いた奇跡の花」という言葉が代表しているのは

クッキー☆の醜さを知る前の無邪気な霊夢

クッキー☆の醜さに直面するもそれから目を背ける事で理想を保っている過激派

であり、前者を現在の霊夢に突きつける事で、霊夢自身の立場の変化を照らし出すランタンのように機能しているのである。

 

3-3. 「視線に飢えている」

10:50 ピエロ「しかしよほど視線に飢えていたのか…。」

14:48 紫「あなた相当に視線に飢えている。」

 これは霊夢、また霊夢としてのアバターを纏う前も含めた主人公について二つの異なる視点から見た表現である。「二つの異なる視点から見た表現」にも関わらず同じ言葉が使われている点が、本論のテーマそのものだ。

 ピエロ、紫共に霊夢アバターを纏う前後の主人公を知っているが、発言の場面は異なる。まず前者は、ク☆堕ちした最初の絵への反応に魅入られている主人公を表現したセリフだ。この時点では

 

「おい、そろそろ5分立つぞ。その絵削除しないのか?」

「いや…それは…」
「どうした?消さないのか?お前のやってるそれは二次創作だぞ。お前が嫌ってた二次創作だ。それも超安易なやつ。お前はオリジナルで踏ん張るんだろ?」
「意地悪しないでよ…」

 

というやり取りから読み取れるように、主人公はまだ葛藤を残しながらもクッキー☆の魅力から逃れられなくなっている。一方紫がこの言葉を言う時、主人公が我を失ってクッキー☆へのめり込んでいる姿が描かれている。紫が「あなた相当に視線に飢えている。」と言ったとき、視聴者は再生時間にして4分前のピエロのセリフ「しかしよほど視線に飢えていたのか...。」を思い出す。それが引き金となり、視聴者はまだ葛藤を残していた頃の主人公と、現在のクッキー☆にのめり込んだ姿を対比する事ができるようになる。これが「繰り返し」の効果である。

 

4. 分析結果から見る繰り返しの機能

 以上3つの例について分析したが、その結果明らかになった繰り返しの機能についてまとめよう。

・異なる状況について、共通のセリフを接点として対比させる。

 過激派と企画者の例がこれにあたる。彼らの対立については劇中様々な表現で繰り返し描かれるものの、このセリフの繰り返しを用いた表現は霊夢が最終的な選択を迫られる場面に配置される事で、最も効果的に機能している。

・視聴者に、異なる時点での登場人物を対比させる。

 3-2,3-3がこれにあたる。セリフが繰り返された時点で視聴者は前回そのセリフを聴いた場面を思い出し、現時点で展開されている状況とそれを頭の中で比較する。セリフの繰り返しという技法を用いなければ、作者は対比させたい時点の人物について、回想などの描写で再び描く必要があるだろう。そして時折そうした描写は視聴者に冗長さを覚えさせる。ここではその回想がセリフの繰り返しによって視聴者の脳内で行われ、結果として作品の無駄を省く事に繋がっている。

 ここでの考察で3-1と3-2,3-3が別の結果を導いているのは、同じセリフの繰り返しであっても厳密に見た際それぞれ異なる性質を持っているためである。即ち、前者は一つの場面内でセリフの繰り返しが用いられているのに対し、後者は時間的に距離のある別場面でそれが行われている。前者は本論で最初に定めた「繰り返し」の定義からは外れるが、分析対象とする価値があるため取り扱った。

 

5. 終わりに

 今回はセリフの繰り返しに焦点を当てて分析を行ったが、これは『自己矛盾☆』で利用されている表現技法のごく一部に過ぎない。この作品は言語学、文学理論、映画理論など様々な分野で研究する余地の残された作品である。今後の作品分析、及び創作活動の発展を願うと共に、筆者もその一助となれれば幸いである。