メモ:幻覚剤の旅。人格を解放するプロセス

世の中の全てを疑ったデカルトはこう言った。

         我思う、故に我あり。

その我 ― Egoへの不信を抱いた時、人間は人間でいられるのか?

 

 

幻覚剤を説明する時、「意識を解放する」というフレーズはあまりにもチープだが、同時にこの上なくシンプルに、そして正確にその性質を表していると言わざるを得ない。

 

意識の解放 ──── それは自分の感覚への不信から始まる。

 

人間は空想の中に生きることができる。それでも、自身の感覚を信じる事で意識は現実に繋ぎ止められる。身体感覚はいわば命綱として働いている。それはどんな状況でも、自分が現実世界にいると安心できる命綱。今この目で見ている、この耳で聞いている、この手で触っているものは現実なんだ、という思い込みの上で人は生きている。

幻覚剤は視覚を変化させる。聴覚を、味覚を、時間感覚を、何一つ自分の知覚するものに真実など無いことを眼前に突きつける。命綱を失い、寄り掛かる壁を失い、ただ一人不安定な足場に残された人間は恐ろしい不安、孤独感に包まれる。

 

そして彼は地図のない平野へ飛ぶ。

 

高い壁に囲まれた道。外を覗くことすら許されない一本道。彼はもうその安寧に戻れない。

 

 

 

ドラッグによる恍惚状態は多くの場合「飛ぶ」と表現される。

対して幻覚剤によるトリップを、人々は「ダイブ」と呼ぶ。感覚への不信が生まれ、外に寄りかかるものが無いと知った時、人間の意識は内面へ、自分のナカへ深く、深く潜っていく。

自身の力で探索を進めない限り、そこはただの暗闇に過ぎない。そこに何があるか誰かが指し示してくれる訳ではない。出口すらわからない。

 

幻覚剤での旅に「ガイド」が付くことは多くの場合望ましい選択だ。ジョン・C・リリーのLSD体験を読んだ者なら、経験豊富なガイドがトリップをどう支えてくれるかわかるだろう。

 

幻覚剤はあらゆる思い込みから精神を解き放つ。そこには物理的な制約が存在しない。ワタシの身体はこのサイズの空間を占めている?その身体は一つしか存在しない?その根拠をワタシは求めたことがあっただろうか。ワタシは4つの声帯から発声し、8つの鼓膜で返答を受け取った。収まるべき場所を失った意識は空気に溶け込み、対流に乗って部屋へ広がっていく。

 

それは意識の解体。人格が溶けていくという解放。そして彼は模擬的な死を経験する。

 

 

 

 

全てを見、聞き、味わった彼は再び現実へと戻ってくる。その外見に変化はない。そしてその精神は、不可逆的に変化している。

知ってしまった世界を忘れることはできない。その全てを記憶の果てに置き去りにすることはできない。

彼は今までと変わらぬ世界を生きていくだろう。人とは違う物を見ながら。