トリップするとどうなるの?:短編小説

幻覚剤のトリップってなかなか想像しづらいですよね。経験者に聞いても言葉ではうまく説明できないものだし...。そういう事で一つの参考になればと短編でまとめてみました。

 

※この作品はフィクションです。違法・合法問わずあらゆる種類の薬物の使用を推奨するものではありません。

お決まりの文だけど書いてみたかったんだよね。なんかそれっぽいじゃん(知らん)

 

以下本編

 

 

心地よい温度の部屋で横になる。シャーマンがアヤワスカ治療のために歌うイカロの素朴な響きが、心を落ち着けるのを助けてくれる。

ー不安と期待

ちょっとした心のさざ波が増幅されて嵐を引き起こすこの旅には望ましくない。ゆっくり、ゆっくり心と身体を脱力させる。

喉元の金属的な痺れがトリップの始まりを告げ、登り路が始まる。

目の前に映るシンプルな模様が次第に組み入っていく。まるで単細胞生物が多細胞生物へと進化していくように。46億年の進化の記憶が遺伝子に組み込まれているのは当然じゃないか?自分の中に秘められた情報が引き出され、目前に晒される。自身の、人類の、そして生命の歴史が抽象的な映像として展開していく。人間の意識はどこまで視覚に支配されているのだろう。

...音だ。イカロに紛れてサイン波が微かに届いてくる。自己触媒化する単純な音はそれ自身とぶつかり、乱れ、複雑化していく。その波長は既に現実ではありえない響きへと到達している。

存在しない空気の振動はぼくの意識を共振させる。サイケデリック・トランスを聴くたびに軽い幻覚を引き起こすトリガーは、今自分の脳内からぼく自身を揺さぶっているこの波形だ。

痺れは喉から手足へと広がり、意識を重力から解放する。LSDを服用してアイソレーションタンクに入ったジョン・C・リリーはいわば無重力オーバードーズだ。常にぼくの意識を縛り付けている身体は溶けた?沈んだ?散った?いずれにせよ魂は肉体の軛を解かれた。

形を無くした身体、方向を失った精神は蒸気のように霧散していく。限りなく希薄になろうとも、可能な限り広く拡散しようとする魂。

”規模”の概念が失われていく。ほんの一部を切り取っても全体像と形の変わらないフラクタル。宇宙を統合する自己相似の法則はぼくの意識と宇宙を同一化する。

梵我一如。なんてシンプルな言葉だろう。なんて不便な言葉だろう。

その境地を体感した者にしか理解できない宇宙の真理。言語の不自由さに直面する禅僧は美しい禅問答の数々を生み出した。

オルダス・ハクスリーは『知覚の扉』でこう書いた。

 

 

"ある弟子が師匠にこう尋ねる。

「世の真理とはどこにあるのでしょう」

「庭の生け垣の中じゃ」

「ではどのような者がそれに触れる事が出来るのですか?」

師匠は弟子の肩をぴしゃりと打って言った。

「そは黄金の獅子じゃ」

 

この禅問答を見た時、私は意味をなさない、ナンセンスなやり取りだと受け取った。それが今、メスカリンの作用の中にあってこの師匠の言葉が真実を捉えたものなのだと理解した。それはこれ以外の言葉で表現する事の出来ない、世の真実なのだ。"

 

 

禅僧が厳しい修行の果てに辿り着いた境地を、ぼくたちはインスタントに経験できる。それは言葉では表現できないが、どうにかして言語化するならば常人から見て解釈不能な文になるだろう。この言葉は言語学では解析できない。しかしながらランダムに生成された物ではなくある一つの体系であって、むしろ特定の感覚を引き出すための呪文の一種と言える。経穴に刺激を与える鍼と同じように、これらの言葉は精神(脳と言い換えても良い)の特定の部位を刺激する事で作用を与える。意識を操作するテクニックの体系、言葉による鍼治療こそが禅問答なのだ。

突然思い出したように息を吸い込む。呼吸するのを忘れていたのか?いや、これは時間感覚が引き延ばされているせいだ。ここまでの思考が一呼吸の間に行われていた事を知る。普段そのほとんどが眠っている脳が本気を出した時、思考が加速する事で時間感覚は相対的に引き延ばされる。そもそも人間の時間感覚とはいかようにも伸び縮みするもので、人に叱られている時の5分間と楽しく遊んでいる時の5分間が同じ長さに思えるという人間には出会ったことがない。時計による時間は社会に規律をもたらしたが、その役割を過信してはいけない。数量としての時間と私たちの感じている時間は別物であって、前者によって後者が定義される事はありえない。

 

そうして思考が反響する。

そうして思考が反響する。

そうして思考が反響する。

一つの考えが四方の壁にぶつかって別々に返ってくる。ズレた思考に合わせて人格も分裂していく。それとも人格が分裂したから思考もズレていくのか?卵が先か、鶏が先か。一度始まれば無限に思考が反響して互いを変質させていく。意識がハウリングしないようにリミッターをかける。言葉による思考が信頼できない段階へと入る。

波のように寄せては返す思考は脳を震わせ、失ったはずの身体を振動させる。意識が物質を動かす。身体はあらゆる形へ変化を繰り返す。

表情筋を引きつらせれば機械の精霊が彼らの言葉で脳に語り掛ける。その眼球の歯車が回転するたびに意識のギアが切り替わる。右脳と左脳の狭い隙間から這い出して一息つく。自分と言う恒星が自身の重力で内側に崩壊していくのを見る。意識の虹から降る飴玉は黄色い味がする。全ての秩序が失われて一つのシステムに統合されていく。

ぼくはここに存在していながらここには存在しない。神聖で冒涜的なビジョンに翻弄される。物事が対立している様を表す「矛盾」という概念がそれ自体なんの矛盾も含まない整合された体系と知る。存在する/しないという0と1のデジタルな対立ではなく、その「濃さ」による判断で世界を分析する。自分が存在する領域、占有している空間は明確な境界を持たず、スペクトラム状の広がりとして認識される。

 

不意に意識が投げ出される。ぼくを圧倒し、翻弄していた思考の嵐はあとも残さず消え去って、ただぼく一人が凪のなかを漂っている。自我の死(エゴ・デス)だ。

今までの嵐は自我の揺らぎが増幅されたものだったと知る。デカルトの言う「考える、故に我あり」の「考える我」、彼が定義したところの自己の最小単位が停止した状態。それじゃあぼくは無くなってしまったのだろうか?

いや、考える事ができなくなってもここにぼくは在る。自我というカプセルに包まれた自己の本当の最小単位。魂。

光も、闇も無い場所でただ漂う魂。どこまでも広がる平穏に抱かれる。死んだ後の世界。生まれる前の世界。

 

 

 

自分に身体がある事に気が付く。瞼というものがあって、それが開けられるのだと気が付く。目を開くと天井があった。

生まれたての赤ん坊のように少しずつ世界を知る。自分に手足がある事を知って嬉しくて笑ってしまう。ぼくがぼくである事を段々と取り戻していく。

お腹に手を置くと膨らんだりへこんだりしていて、自分が呼吸している事を知る。身体の形がわかってくる。

やれやれ、大変な目に遭ったと思いながら今までの経験を反芻する。言語は不自由だ。でも言語化できた事以外はきっとその内忘れてしまう。

ピークが去ったけれどまだ作用が終わったわけではない。時計を見ると3時間が経過していたけれど、当然体感時間がどれくらいだったかなんて分析はできない。

ここまでの経験をタイプする。意識が一点に集中すると自分の世界がそこへと収束していく。ここでは時間の流れが普通とは違う。流れる水のような時間ではなく、ある種のフレームの連続として時間が知覚される。その瞬間の宇宙を切り取ったフレーム。それが連続して進んでいく世界。フレームを切り替える、もしくはこの世界のページをめくるタイミングは自由にコントロールできる。切り取られた一瞬に好きなだけ滞在する事もできる。

かなりの文量を打ち込んだつもりだったが、時計を見ると3分しか経っていない。まだ心は時間の縛りから解き放たれたまま、ゆったりと音楽に耳を傾ける。

こんなものだろうか。肺を風船のように膨らませてたばこを吸うのが面白かった、という事だけ書いて、この文章を終わりとする。