読書感想文:『すばらしい新世界』

そもそもこのブログに「うおとかの本棚」と名付けたのは読書感想文を載せようと開設したからなのだが、これまでに投稿したそれらしいものは『アナル全書』についての記事のみで、それすら読書感想文というよりは書籍レビューに近い代物だ。今回はオルダス・ハクスリーの著した『素晴らしい新世界』について、その感想を記したい。

未読者のために、作品世界を簡潔に描写しよう。西暦2540年。世界は完全に統制されている。母親が腹を痛めて子供を産む時代は忌むべきものとして忘れ去られ、すべての人類は瓶詰のまま人工授精で生産される。社会はトップエリートであるアルファ階級から、最下層のエプシロン階級までで構成される階級社会である。全ての人類は生を受けた直後から始まる条件付け教育によりその階級に対して模範的な人格しか持たない。彼らは与えられた役割をこなし、余暇にはフリーセックスに励んだり、副作用なしにトリップできる政府配給の麻薬を飲んで時間をつぶす。

まずこの小説の舞台が、国民すべてが幸せに暮らすユートピアであるが、外部から見れば何もかもが人為的に統制されたディストピアであるというある種の矛盾から始まる。他のディストピア小説と同じように、この作品世界において統制者にとって不都合な書籍や思想は徹底的に排除され、すべての人々は機械の歯車のように、みな同じ顔立ちで与えられた仕事を遂行する事が要求されている。我々の価値観からすればこれは自由がなく、個性が許されず、不幸な生活に思える。この世界では誰もが自分の立場が一番素晴らしいと信じていて、それを遂行する事こそ自由の喜びなのだ!

その理由は徹底した条件付け教育—我々の言葉では「洗脳」と呼ぶ―にある。これは睡眠学習によって行われる。例えばベータ階級の幼児が睡眠中に聞かされる文を見てみよう。「デルタの子はみんなカーキ色の服を着ている。ああ嫌だ。デルタの子たちとは遊びたくない。エプシロンなんてもっとひどい。ものすごく頭が悪くて読み書きもできない。おまけに服の色は黒で、ほんとに嫌な色だ。私はベータで本当に良かった。」「アルファの子は灰色の服。わたしたちよりうんと勉強をする。頭がものすごくいいからだ。わたしはじぶんがベータでほんとうによかった。なぜならそんなにたくさん勉強しなくていいから。」

彼らはこれを5万回以上繰り返して聴くことになる。ここで特筆すべきは、「上の階級より自分の階級の方が良い」という刷り込みを与える事だ。普通の人間には向上心というものがあり、階級社会では上を目指そうとしたり、それが不可能なら上に立つ人間をねたんだりする。この競争は社会を前へ前へと進める原動力になるが、それはすなわち社会に不安定をもたらすという意味でもある。

この作品世界は前進を求めない。既に理想の世界は完成している。あらゆる不安定要素を取り除くことこそが幸せを保つ手段なのだ。

この描写には行動心理学への批判も込められている。「パブロフの犬」に表される「心理的行動は一定の刺激による反応として現れるものであり、条件付けにより制御ができる」という思想は一部の人々に拡大解釈され、条件付けの効果を過大評価する向きが当時表れていた。ハクスリーはそれに具体例を提示し、その不自然さを見せようとしたのだ。

この世界ではフリーセックスが当然のものとされ、一人を独占しようとする考えは奇異な物として扱われる。これは前述した人工授精による人口生産が定着したことにベースがあると考えられる。そもそも人が家族を持とうとするのはなぜか?男女が生殖すれば生まれた子供には養育者が必要となる。その為に父親、母親に養育義務を遂行させるために拘束するシステムが結婚、家族制度であろう。むろん我々には家族愛といものがあって、家族というのはそんな無機質なシステムに還元されるものではないという感情もあるが、家族機能の根本はこの原理にあるはずだ。では、誰も子供を産まず、幼児が養育センターで集中管理されるようになれば家族の必要性とは何か。そんなものは存在しない、というのがこの世界での考え方だ。

生殖と結びつかなければセックスはただのレジャーに過ぎない。この点は我々の社会でも、ゲイの性行動が比較的奔放に見える要因であると考える。行きずりの女性とのワンナイトラブも当然存在しないわけではないが、初対面のゲイが好き勝手にセックスする発展場の数とは比べ物にならないだろう。我々の世界において同性婚はかなりのレアケースであって、家族となる事を前提としなければ性に奔放になる理由も明白である。

この世界の階層社会は明確な優生学に基づいているが、そのシステムも独特だ。ナチス・ドイツが行った優生学的社会の構築は優れた人種を残し、劣等人種を絶滅させる選民思想に基づいて行われたが、この世界では優れた人種と劣等人種を人為的に作り出すという点で異色である。指導者となるべきアルファ階級は考えられる限り最高の工程で生産される。では劣等人種たるエプシロンはどうかというと、まず一つの受精卵を分割するところから始まる。一卵性双生児を人為的に作るわけだが、ここでは最大96人が一つの卵から生産可能とされている。96人の同じ顔、同じ声の人間が生産される訳で、これは人間を機械のパーツのように用いる為には実に都合が良い。さらにエプシロン階級は胎児の時点で意図的な低酸素状態に置かれる。これにより発育が遅れ、低知能、低身長となる。オーウェルの小説『1984年』において最下層であるプロレは無害な娯楽を与え、教育を施さない事で最下層としたが、『すばらしい新世界』においては発育段階から低知能とすることでより統制しやすいシステムであると言えよう。これが正しい選択である事は、作中において実験から導き出された科学的事実である。

西暦2381年、キプロス島に22,000人のアルファ階層のみを集め、最高の人間のみによる社会を構築させる実験が行われた。その結果を見てみよう。

「世界統制官評議会がキプロス島から全住民を追い出し。22,000人の特別に作られたアルファを入植させた。農業と工学の設備をすべて引き渡し、社会の運営を自分たちでやらせた。その結果は理論的に予想されたとおりのものだった。土地はきちんと耕作されず、どの工場でもストライキが起きた。法は実効性を失い、命令は無視された。低級労働を割り当てられた者は高級労働につこうとたえず画策し、高級労働を割り当てられた者はなんでも現在の地位を守ろうと策略をめぐらした。6年後には本格的な内戦が勃発。人口22,000人のうち19,000人が殺された時点で、生き残った住民全員が合意して世界統制官評議会に島の統治を再開するよう懇願した。評議会は承諾した。こうして史上唯一のアルファだけの社会は終わりを迎えたんだ。」

ここで話題を変えて、重要な登場人物である野蛮人ジョンを見てみよう。「文明人」によって統制されるこの世界にも「野蛮人居留区」があり、そこではいわゆるインディアンが自身の文化を保ちつつ生活している。ある文明人の女性が野蛮人居留区を訪問中事故で行方不明となり、野蛮人居留区で子供を産んで育てる事となった。その子供がこのジョンだ。この世界で「出産する」というのは口に出すのもはばかられる卑しい行為で、その子供を連れて文明社会に戻るなどという生き恥を晒すことはできず、その元文明人の女性は野蛮人居留区にとどまる事となる。この作品世界において過去の文学は全て抹消されているが、このジョンは野蛮人居留区に残されていたシェイクスピアを読んで育つ。その事に起因し彼の喋る言葉はほとんどがシェイクスピアの引用である。”野蛮人”がシェイクスピアをそらんじる可笑しさがこの世界を皮肉っている。実際、この文明社会において求められるのは「幼児性」であると明言されている。自分がしたい事をする。快だけを求める。安らぎに溺れる。その全てを提供するのがこの社会であって、それ以外の全てを排除するのがこの社会である。

ジョンは文明人の子供である事から、野蛮人社会でも孤立していた。条件付け教育が効きづらい体質から自らの異端さを認識し苦しんでいた主人公は野蛮人居留区を訪れた際このジョンに共感し、彼を文明社会へ連れ出すことを決める。ジョンについての話はここまでにして次に移ろう。

この文明社会では、当然想像されることだが、キリスト教は存在しない。しかし、はたして宗教の存在しない文明などあるだろうか?この世界で信奉されているのは実在の人物、ヘンリー・フォードである。アメリカの自動車メーカーフォード社の創業者、大量生産システムの父と言えば誰でもわかるだろう。定期的に行われる「団結儀式」は全員で幻覚剤を服用し、フォードの名を讃え、熱狂と陶酔に溺れる。この世界では工業を成長させるため、消費を促進する条件付けが行われている。「継ぎはぎするより次々捨てよう」「縫い針一本恥のもと」そのためフォードが信仰対象として、この世界の統治者によって選ばれたのだろう。ただ、実際のところ信仰する対象など何でも良いのだ。

登場人物の名前がレーニントロツキーマルクスなどに由来している事から、作者はソ連も作品世界のディストピアと共通点があると見ている事がわかる。ソ連共産主義は宗教を排除したが、果たして国民に信仰が存在しなかったか?否、レーニンスターリンへの個人崇拝こそソ連の国教であり、人民の持つ”信仰エネルギー”はそこに向けるよう管理されていた。こうした建前と実態の矛盾を描き出したのがこの作品だといえよう。

以上、このディストピア=ユートピア小説について概観した。ここで触れられているのは原典のごく一部なので、興味を持った者には是非読む事を勧めたい。その際には注釈の非常に丁寧な新訳版を勧める。

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 

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